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古代ローマ帝国のシーザーの時代から使われてきた暗号は、近現代に入って、数学の隠れた応用分野になった。外交上の機密文書の送受信、あるいは戦争時の作戦指令の伝達。第2次世界大戦では暗号作成や敵国暗号の解読に著名な数学者がひそかにかりだされた。

その暗号が今、表舞台に上っている。ネット通販でクレジットカードの番号を伝えるとき、本人確認のIDやパスワードを送るとき、その情報は暗号化されて初めて安全が確保できる。暗号はネット社会に不可欠な技術になった。
1年前の冬、日立製作所の渡辺大は、国際コンペのライバルが次々に姿を消すのを、あっけにとられながらみていた。
「候補Aの弱点、発見」
「候補B、破りました」
専用のメーリングリストには、毎日のようにこんな報告が飛び込んでくる。51候補が、瞬く間に半数足らずになった。
東北大の大学院で整数論を学んだ渡辺は、1999年の入社以来、暗号技術の開発一筋。今回は、ベルギーにあるルーベン大の暗号研究者と英国に駐在する同僚と、3人でチームを組んだ。
暗号開発では通常、チームを「攻撃役(アタッカー)」と「防御役(ディフェンダー)」の二手に分ける。渡辺の役回りは防御役。アイデアを思いつくと、弱点がないか、攻撃役に点検してもらう。日欧3カ所に分かれながら、メールで相談して開発を進めた。最後は自らもベルギーに滞在して、練り上げた。
渡辺が応募したのは、データ改ざんの検出や本人確認などに活用される暗号技術「ハッシュ関数」の国際コンペ。米国の国立標準技術研究所(NIST)が主催し、勝ち残った技術は、次々世代の事実上の国際標準となる。民間企業や大学研究者など20カ国から64件の応募があり、渡辺が提出した「Luffa」は、昨年7月、2次選考に駒を進める14候補に選ばれた。
ひとかたまりの大きな暗号手順を組み上げる通常の手法に対し、Luffaは、それを小さなかたまりに小分けして組み立てた。「応募技術のなかでも発想の斬新さは一、二を争うはず」と渡辺はいう。
今年夏には、5候補に絞り込まれる。「暗号化処理速度はトップクラスの性能がある。これから安全性の証明を高めていきたい」

電気通信大教授の太田和夫によると、暗号研究の転機は1970年代半ば。米国の研究者が「公開鍵暗号」という新方式を考案。翌年、この暗号に素数が活用できる、とやはり米国の研究者3人が発表した。巨大な二つの素数をかけ算して出た答えから、元の二つの素数を当てるのは非常に難しいことを利用した。純粋数学の対象とみられていた素数が応用できるとあって、研究者の注目が一気に高まった。
さらに同時期、米政府は暗号技術の公募に踏み切る。それまで暗号は仕組みそのものを秘匿していた。その仕組みをすべて公開し、多くの研究者に検証機会を与えることで、暗号の安全性が高まる――。そんな逆転の発想だった。

米国から10年遅れで本格化した日本の暗号研究で、三菱電機の松井充(48)は攻撃と防御の両方で世界の注目を集めた。
最初はアタッカーとして。米政府の標準暗号として20年近く破られなかった「DES」の解読に94年、成功した。
当時、暗号解読は、考え得る鍵の組み合わせをしらみつぶしに確かめるのが普通だった。DESの場合、組み合わせは約7京通り(京は1兆の1万倍)。当時のスーパーコンピューターでも解読には2千年かかるとされていた。ところが、松井は暗号の手順をより簡単な数式に置き換える「線形解読法」という手法を開発。高性能パソコン12台を使って約50日で解読してみせた。
松井は、今度はディフェンスに回る。翌95年、より解読されにくい暗号「MISTY」を新たに開発。これを改良した暗号がいま、現在の第3世代携帯電話の標準規格として採用されている。
松井は言う。「現代は、暗号なしに1日を過ごすことは不可能な時代。電気や水道と同じぐらい、現代社会を見えないところで支えている。そして、その暗号を支えているのが、数学なんです」
(文中敬称略)